未来へ繋ぐ食と農、そして命
TR比
地上部と地下部の比率を表す言葉です。
理想は1:1だと教えていただきました。
これを頭の中でイメージした時に、なるほどと感じた事があります。
上を作る為に根がある。根を育てるために上がある。
森林を見た時に、誰も肥料を与えず、誰も農薬をまかないのに、毎年青々と育ち、虫や病気にも負けない植物がそこにあります。
しかしながら、人が手を加えて介在したところは、効率化を図って同じ品種・同じ植物などをまとめて植える傾向にあります。
土壌はバランスを保つために、いろいろな植物を引き寄せ成長させその有機物を微生物によって堆肥化させていくとイメージしています。
いろいろな植物が勝手に生えているのは、土壌がバランスを安定させるために呼び寄せていると私は推測するわけです。
そこに育つ植物もまた、土壌に生かされていくとき、植物自体のバランスが重要です。
そのバランスを表すのがTR比なのかもしれません。
健全な地上部には、健全な地下部が必要です。
その育つ生長の流れを、たんじゅん農から学び、ファスティング農業というジャンルを見出しました。
不要なものが多すぎる。
近年断捨離がはやるように、ファスティングがはやるように、不要なものをまずは排除し、自らデトックスする力を備えることが、重要なのかもしれません。
作物たちも排毒できる力を備えて不要なものを排毒し、人もまた排毒できる力を備えて不要なものが体の中に入ったとしてもきちんと体外へ出す。これができれば多少の事では命が揺らぐことはないかと思います。
残念ながら、排毒しきれないのに毒素がどんどん蓄積するような世の中です。
誰の為の人生でもない、自分の為にまずは命の仕組みを考えてみる時にあるのかもしれません。
Agriculture making full use of the forest mechanism
森林メカニズムを最大限に活用した農業、
これが(有)川原農産の目指す究極のカタチです。
森をイメージしてください。
誰かが肥料を撒いたでしょうか?誰かが農薬を散布したでしょうか?
人が肥料を与えなくても、そこに生きる植物は毎年青々と繁茂しています。
人が農薬をまかなくても、害虫にも勝ち残る力強さを持った植物があります。。
これを田畑に生かそうという、たんじゅん農(炭素循環農の法則)に平成28年に出会いました。
いわば、有機肥料も化成肥料も、肥料と言うものを使わない農業です。
しかしながら無肥料栽培や無化学肥料、無施肥など専門用語や、たんじゅん農などは、一般的に知られておらずそれがなんであるかが多くの人がイメージできません。
そこで、簡単に森のしくみの農業と仮に名付けてみます。
森のしくみの農業は、人工的な手法で行う近代農業と、自然の力に任せる自然農の間の農業であると思ってください。
なぜすっきりと自然農にシフトしないかと言うと、収穫量が安定していないからです。
(有)川原農産はプロ農家として、お客様への良質な食の安定供給も重要なミッションとしております。
かと言って化成肥料と化学農薬のみで行う近代農業を行うわけでもありません。
人生の選択も同じですが、0か100かの判断ではないはずです。
時と場合によって使い分ける柔軟さが大切だと思っております。
動植物も、我々人類も、生命の本質は皆、命を未来へ繋ぐことにあります。
未来へ繋ぐときに、何をどうすべきなのか?私共(有)川原農産は常に考え、軌道修正しながら歩んでいます。
今の最善策は、未来の最善策となるとは限りません。常により良いと思う道を模索します。
だからこそ、(有)川原農産は育む命を我が子のように例えながら常に目配りをしていきます。
生命のしくみは、人も動植物も、ましてや土までもが同じ法則の下にあると考えています。
それではなぜ、このような道に進むのかをお話しましょう。
1.子どもの体と植物のカラダと物質界の法則
をまずは考えてみましょう。
どれも、実はバランスを整えようと働いていると思いませんか?
均衡が崩れると、人の体は病気や怪我につながり、植物のカラダもまた病害虫に蝕まれたり、これが土壌で考えると砂漠化する方向でもあるかもしれません。
全ての物質がその場で崩れることなくあるのは、ある種のバランスが取れているからだと思います。
肥料を人間界の物質で置き換えるなら、私はサプリメントだと思っています。
化成肥料は純度の高い化学式で表せられるようなサプリ。
有機肥料は自然由来のもので作られたサプリ。のようなイメージを持っています。
一般的に植物の生長に必要とされる肥料の3要素は「窒素・リン酸・カリ」です。
では人間の三大栄養素は?
「たんぱく・脂質・炭水化物」です。
では、この3大栄養素だけでは人間の体は構成できるかと言えばできないですよね?
だからサプリを飲むのでしょうと言う方もおいでかもしれませんが、少々お待ちください。
植物も3要素だけで、植物のカラダは構成できるのでしょうか?
私は無理があると思っています。つまりはその他のたくさんの要素がバランス良くプラスされて初めてカラダの均衡を保てるのだと仮説しています。
2.無肥料で育てるという事
自然界の植物たちは、誰かから肥料を与えてもらっているわけではありません。
無肥料で育てていくというのは、自然のやり方に沿った流れを田畑に応用していこうというものです。
収穫物は田畑から持ち出せば、その成分が足りなくなってしまうじゃないか?
と言われることもあります。
しかし水や大気、光などは同じ場所にとどまっているわけではなく、外から入り込んでくるものです。
成分という部分でとらえるのではなく、エネルギーという形でとらえると、ゼロではないし、植物たちはそのエネルギーを物質化してくれているように感じています。
かといって、すべてを自然に任せた自然農で取り組むことは考えておりません。
どんな時でも、お客様の命に直結する食をお届けし続ける責任をもって、私ども(有)川原農産取り組んでいかねばと考えています。
常に師は身近にありと考えています。
私たちの想いが、皆様の健康にお役に立てることを願いながら日々のお世話をさせていただきます。
なぜ?無施肥(無肥料)栽培
(有)川原農産では、平成28年よりたんじゅん農を採用し、無施肥(むせひ)によるお米の栽培は今年で3年目となります。
なぜ無施肥なのか?
一般的に肥料を入れなければ作物は育たない。と考えられております。
しかしながら、その一般常識とは逆行した動きをなぜとるのかと言われれば、納得した理論と言うか仮説があります。
以下は、(有)川原農産 代表の川原應貴の仮説です。
全ての物質は、自然の法則にそってバランスを保とうとしています。
例えば、自分の体をイメージしてください。砂糖を使った料理や飲み物を飲食すると、血糖値が急上昇します。
身体は、血液中の血糖を正常値まで下げようとインスリンを分泌します。
これと同じように、田畑の土もまた理想のバランスを保とうと、必要に応じた雑草が生えると言われています。
肥料の三要素(窒素・リン酸・カリ)の純度の高いものが田畑に投入された場合はどうでしょうか?
元々必要としていたバランスを、肥料によって崩され、理想のカタチに戻そうと働くと仮定したら、肥料分をその土地から排除しようと働くはずです。
約30年近く前に社会科の授業で社会問題になっていた事案に砂漠化と言うものがありました。
化成肥料を多用する事で土地がやせて砂漠が広がっていくと言うものでした。
人間基準、人間都合、人間本位で作物の量産をもくろんだ結果土地をやせさせてしまっているのではないでしょうか?
切り上げ剪定で、無肥料無農薬栽培の道を歩んでおられる道法さんと言う方がおいでです。
道法さんの剪定講習会を受講し、植物ホルモンの働きを学ぶと、なおさらの事肥料が不必要なものであるという事がわかりました。
窒素は植物に吸収されるとジベレリンが増加するという事です。
ジベレリンは植物を活性させ肥大化させるホルモンですが、糖度が低下したり旨味が低下したりと働くようです。
つまり肥料を使うと食味が落ちるというのは必然の話だったのです。
また、エチレンやアブシジン酸などが減少するそうです。
エチレンやアブシジン酸は、病害虫に強くなる抵抗力を上げる物質です。
つまりは、肥料をやることで、植物の抵抗力を下げ、弱らせるから農薬によって防除する必要が出てくるのです。
肥料無しで、どうやって植物が育つのだ?田んぼには稲刈り時に稲わらを戻しているが、籾の部分はそっくり田んぼから、持ち出している。その持ち出しの部分の補てんをしなければ、収穫量が落ちるじゃないか。
と言うのが一般的な見解です。
しかしながら、窒素は空気中に豊富にあるし、特段あえて加える必要はないのです。
それでも納得がいかない方はイメージをお願いします。
植物を育てる時にまず必要なものは、水です。水が無ければ発芽ができません。
その水は、純水ではなく、雨が野山に降り注ぎ土中のミネラルを蓄え、小川や川となり田畑に利用されます。
奥能登では、標高の高い山が無いため水源が乏しく、各所ため池があり利用されています。
要するに、水が命の素であり、常に外から田畑に入り込む水にこそそのエネルギーと栄養素があると仮説します。
だから、肥料を投入しなくても植物は育つのです。
野山を見ればその答えがそこにあります。
誰かが耕し土の中に肥料を混ぜ込んでいるでしょうか?
病害虫に襲われそうだからと、野山に農薬をまく人がいるでしょうか?
誰もまいてはいません。ですが毎年青々と木々は育っています。
誰も耕さず、植物が自ら落とした葉っぱや枯れ枝などが堆積しただけです。
そう、これだけだと自然農でいいのではないか?となってしまいます。
しかしながら、野山には多種多様な植物が入り乱れて生きており、ある程度の生産量を同じ種類の作物で栽培して収穫する事を目的とした農の場合は自然とは違います。
だからこそのたんじゅん農だと思っています。
必要とあらば使えばいい。必要なければ使わなければいいと言う理論です。
(有)川原農産が行うのは、農業であり食糧生産を行う事であり、お客様に安定的に食を供給する事が目的であり使命です。
そしてお客様のお身体がより健康に健全になる食物をお届けする、その最善の方策が無施肥栽培だと考えております。
カロリー表記の落とし穴
農家の9代目、生物資源学士の9代目与三郎の、個人的見解・仮説です。
加工食品には、今後栄養成分表記がされていきます。
その中にあるカロリー。
日本語に変換すると熱量となりますが、要は体を動かすために必要な燃料と言う風に考えたらいいと思います。
最近の傾向としまして、ファミレスなどでも表記されておりますが、皆さんカロリーって気になりますよね?
高カロリーだと、太るとか心配していますよね?
私はそこに落とし穴があると思っています。
何故なら、カロリーとバランスの良い栄養とは決してイコールで結ばれないからです。
一日に必要なカロリーを接種すればいい、必要なカロリーを上回らなければいい、その考え方は危険です。
カロリーは体を動かすための燃料の指標なだけで、体を再生させたり、代謝させたりと言う部分において関与が無いわけではありませんが、
それがすべて含まれないからです。
また、近年の野菜や果物はこの数十年の中で栄養価をかなり失っていると言われております。
ですので、量的に食べなくては体の維持再生に必要な栄養素を取り入れられない状況にも追い込まれていると思われます。
自分や家族の体に必要な栄養をどう考えるか?
生活していく中で、だれもが教えてくれない事実、真実。スポンサーの不利益を謳わないメディア。
アンテナを張っていなければ、自分や家族の健康を守ることは難しい時代です。
メディアから流れる様々な誘惑、すべてを悪いとは言いませんが、判断能力を欠いた状態ではその影響はもろに受けることになるでしょう。
カロリーだけを見るのではなく、使用されている食品添加物、原産地、加工方法、包装容器などいろいろな影響はあるはずです。
全てを変えようとするのは困難です。
ですが一つ一つ見直してみることは、大切だと考えます。
抽象的ではありますが、一個人の見解・仮説です。
信じるも信じないもご自由に。
天和元年1861年創業 百姓一系・九代目与三郎
笑顔生産法人 有限会社 川原農産
代表取締役 川原伸章
保存料漬けの日本人
腐らない日本人、外国人の方がよく知っている。
こんな話は聞いたことがあるだろうか?
ニュージーランドでの大震災、遺体の処理をするのに現地では日本人後回しにしろと言われていた。
葬儀屋さんの話、ここ30年ほどの間にドライアイスの使用量が極端に減った。
これらは、食品中に含まれている保存料の摂取量が確実に増え、腐敗しにくい体へと変化していることを示唆している。
一方、当の日本人はそんな現状、あるはずがないと思っている者が大半であろう。
厳しい厚生労働省の検査で、食品の安全性は保たれている。
輸入食品も厳しい検疫や検査など水際で、国内流入を阻止している。
そう信じてやまない日本人が圧倒的であろう。
しかし現実は違った。
さらに、ここまでひどいのか?と我が目と耳を疑いたくて仕方がないくらいだった。
平成28年11月25日、視察研修の一環で私は、所属する団体で横浜港の一角にいた。
案内されたのは、緑色のテント倉庫と言う簡易的な倉庫。
一応カギはかけられてはいるものの、ネズミや猫などの小動物が侵入可能な感じの物だ。
そこにはプラスティックドラムや、木枠で組んだ木箱、段ボールいろいろなものが野積みされている状態だった。
案内人はいう。
「中身は何だと思いますか?これは辛子の葉っぱです。通常塩漬けなら半年ほどすれば溶けてなくなります。しかしこれは溶けません。」
「これは大根です。ここには野積みで5年たっても10年たっても置きっぱなしの物もありますが、それでも出荷されていきます。皆さん良くご利用の大衆居酒屋、一皿200円程度で出てくる漬物の盛り合わせ、あれがこれです。」
「これは小茄子です。どこに行くと思いますか?よく温泉地なんかで見る辛子茄子、あれになります。中国から入ってきているにもかかわらず、産地の名産的に取り扱われています。」
「ここに置いてあるものは、食品衛生法除外の原料です。食品ではありません。ですので野積みでも何ら法律に引っかかることはありません。」
「これらを仕入れてくるのは商社です。国産原料の高くて10分の一、安ければ30分の一という価格で輸入されます。しかも腐ることがないのでそのまま放置して寝かせていても商社には利益が落ちる仕組みです。」
「これらは、見た目が悪くても何ら問題はありません、漂白して着色し、塩やうま味調味料などで味付けと香料による香りづけ、これで一級品に変わります。」
「コンビニ弁当、あれの原価はご存知ですか?100g1円です。でなければあんなに安く全国へ流通できません。」
「生卵、輸入されていないと思いますか?輸入されています。黄身と白身を分けて冷凍し、使用時に合わせて使うというやり方です。」
「現日本において、輸入されていないものを探す方が難しいほど、ありとあらゆるものが輸入されています。」
「例えば人毛。これは何に使われるかご存知ですか?醤油の原料になります。メーカーは否定しますが、千葉県の某所に運んでいるドライバーが証言しています。」
衝撃の言葉のオンパレードである。
またそれらを目の前にしての言葉だから、疑いようがない。
案内人の言葉は続く。
「あれを見てください。輸入に使用されるコンテナです。出入り口は一か所です。10m以上のコンテナに満載になった商品を逐次検査できるでしょうか?検査するのは手前の方だけです。」
「後ろの方には何が入っていてもわかりません。輸入貨物コンテナの検査実態は全体の2.6%ともいわれています。書類に不備がなければそのまま通過が一般です。」
「近年、3.11以降輸入食品の方が安全じゃないか?と真剣にいう人がいますが、これでも安全と言えるでしょうか?」
我々日本人は、何を見てきたのだろう?
いや、見ていないのだ。見ないように伏せてきたのだ。
それが実態だ。
我々日本人は日々、無数の食品添加物を知らず知らずのうちに接種している。
一人当たり一年間で口にする食品添加物の量は約4㎏ともいわれ、一生の間に接種する量は実に約250㎏にもなるのだとか。
あくまでも平均値。
少ない人もいれば、それより多い人もいるのである。
化学物質過敏症の人であれば、別かもしれないが、食品添加物を接種したからと言って、一気にショック症状を起こして倒れる人間はほぼいない。
だからこそ、みんな大丈夫なんじゃないか?と思うのである。
本当に大丈夫なのだろうか?なんてうが害を持つ人はごくまれなのである。
直ぐに変化が現れないから、たちが悪い。
少しずつ着実に蝕まれていくが、だれもそれが悪いとは気が付かない。気が付いた時にはもう墓場の中なのである。
明日からの食べるもの、意識が少しでも違う視点から見れるように、小さな気付きになればうれしい。
食と体2
食品添加物では、人の体は作れない。
「人の体は、食べたものでできている。」
そんな当たり前のこと、言われんでもわかりますよ。
とご指摘が飛んできそうだ。
しかし、その当たり前のことをどういう風に考えて行動するか?ここに重要さがある。
当たり前だという人の中に、どれほど自分の体の為に気を遣う方がいるだろう?
身体によいものや悪いものは、どういう風にはんだんしているだろう?
食品添加物、良いか悪いかを判断しなさいと問えば、概ね体に悪いと答える人が多いだろう。
では普段の食生活にどれだけ食品添加物を多用しているのかを考えている人はどれだけいるか?
と問えば、そのほとんどが考えていないだろう。
身体によくないと理解しているにもかかわらず、食べ続けるその理由は何か?
大手メーカーが、厳しい検査をして世に出している商品だから間違いない??
厚生省の基準を満たした食品添加物だから大丈夫??
大量じゃないんだから、チョットだけなら体に害はない??
本当にそうですか?
本当に、大丈夫ですか?
これを言うと、大半が口をそろえて言うのが
「そんなことを言うと食べるものがない!」
という反論だ。
本当に食べるものがないのだろうか?
格差社会だ、社会問題だといろいろと取り上げられることが多い世の中だが、自ら情報を得て自らの体を守り、次の命へ繋いでいく事はできないのだろうか?
答えは簡単。
できないのではない、やらないだけ!なのだ。
普段の生活の中、食材などを買い物に出る時注意してみてほしい。
普段手に取る商品とその原材料。そしてそれよりも安いものと高いものの原材料。
一番高いものを選んでいるという人は別の店舗に行ったときにでも、別の物を見てほしい。
特に注視してほしいのは、調味料だ。
一番簡単なところで言うと、醤油だろうか。
日本の食卓には欠かせない調味料ともいえるだろう。
普段何気に使う醤油、実は面白いほど差がある。
本当の醤油と呼べるものは、実のところ少ない。
そして、本物の醤油とそうでない醤油風調味料は、価格差も大きいが風味の違いにも驚かされる。
我が家は典型的な貧乏百姓の家系。おかずよりもご飯が主で、塩辛い少量のおかずでご飯をたくさん食べて腹を満たす食事だ。
私の両親祖父母を見ていると、甘く加工された醤油を好んで使っているが、醤油ではなくいろいろな添加物の含まれた醤油風調味料だ。
喘息など悪い影響を及ぼすと言われる、「安息香酸」が確か入っていたと思う。
私も、子供が授かる前までは普通にそれを、何も考えることなく使用していた。
子供を授かり、子供の体を考えれば考えるほど、食への意識は高くなっていく。
そんな中、地元メーカーではなかなか丸大豆醤油と言うのが手に入りにくいため、某大手メーカーの丸大豆醤油を使うようになった。
面白いことに味覚の変化が起きてきた。
甘く加工されていないから、塩辛いだけの丸大豆醤油だと思っていたが、少量で素材の味を楽しめるように変化してきた。
前は、醤油でご飯を食べる。という言い方が正しいような感じ。今は醤油でほんのり味付けをしておかずを食べる感じだ。
これで終わりではない。
嫁さんが、醤油を使い分けし始めたのだ。
普段使いの大手メーカーの丸大豆醤油と、ちょっとお値段のする瓶入りの本醸造の醤油。
これまた風味が違うことに驚く。
これにまた面白さを覚え、ネット通販でさらにこだわりのある醤油をお取り寄せしてみた。
これまたすごい!
風味が格段に上なのだ。
嫁さんはこの醤油をベースとしたドレッシングを作るが、余計なものは不要。
醤油だけで素材のうまさを引き立てることができるのはびっくりだった。
そして使いながら数ヶ月して思ったことは、あぁ、経済重視社会の弊害だという事だ。
経済を回す=消費拡大を促す構図。
メーカーはこぞって安価で、賞味期限の長いものを製造する事で利益を拡大させようと動いた。
しかし、そのためには食品添加物が大量に使用されることとなるわけだ。
店頭に並ぶ醤油にも、いろんな価格帯、形状があるわけだが、どれに手を伸ばすかと言う事が重要である。
一般的消費心理から考えれば、価格帯のある程度安めの物、量的にそれなりに入っている物に手が伸びやすいだろうし、
高額で量的に少ないものは手が伸びにくい。
では、その消費スピードを見比べるとどうだろう?実は面白いほど差が出てくる。
貧乏心理なだけかもしれないが、
安いものは、安いからと気にせず消費。皿の上にどっぷりと余っていてもお構いなしに対し、
高額なものは、高いからと少しずつ消費。皿の上にはほぼ残らない。
これだけ見ると貧乏くさいと思う。
が、しかし実のところ、次のような変化がある。
どっぷり使うものは、醤油(風)な味が強く、まさに醤油を食べる感じ。
少量使うものは、醤油がサポートして素材を食べる感じ。
味覚の変化が起きてくるのだ。
そして消費スピードが驚くほど変わってくると、実は1か月あたりの醤油にかける金額と言うのはほとんど大差がない状況になる。
高いからもったいないと安いものを買い、安いからと言って無駄遣いをする。
安いものには大量の食品添加物。自分の血肉になりえないものを体に入れた結果、体に弊害が起きる。
弊害が出ると病院へ行き、医療費が増える。
一方高いものは、
高額だからと使用量が減り、味覚が鋭くなってくる。
食品添加物などは含まれないモノであれば、自分の血肉へと変わる。
健康体を維持できれば、医療費が減る。
何方が理想か一目瞭然である。
これは、押し付ける話ではない。各々に選択の自由がある。
どうせ選択するならあ、体にも財布にも得な方を選んではいかがだろうか?
醤油だけで健康になれるとは言わない。普段食べるものすべてに通じるところがある中で、
我が家の実体験を例に、醤油の一例を挙げたに過ぎない。
人は食べることで、命を繋いでいく事ができる。
現代社会において食べ物には、血肉に変わりえるものとそうでないものがある。
そして世界各国見渡しても、類を見ないほどの食品添加物の許認可数があるのが日本である。
食品添加物の一つ一つは分析して人体に及ぼす影響を検査して認可を出しているそうだ。
しかし、いくつもの食品添加物が混ざりあった結果を検査して認可を出しているわけではない。
単一の食品添加物だけ含まれる場合は想定内だが、複数使用した場合は想定外になるのだ。
これが現日本の食品添加物の実態らしい。
国が国民の命を守ってくれるわけではない。
大手メーカーが害の無いモノを宣伝しているわけではない。
自らの命、自らの家族の健康、これを意識して考え行動し守れるのは、あなただけなのだ。
食と体1
ここまでイジメれば身体は壊れる。が、治してみせる。
高校大学と7年間実家を離れて生活した私。 その間の食は、偏食極まりないものだった。
中学時代、甘い炭酸ジュースの一気飲み、友達と競う様にやっていた。
高校時代は、下宿でご飯はある程度準備していただいていたものの、親の目がなくなり売店やコンビニでの買い食い、自販機で乳化剤入りのジュースを買うのが日課的になっていた。
大学時代は一人暮らし。コンビニの深夜バイトで寝る時間を削ぎ、廃棄弁当をもらって帰っては冷凍庫に突っ込み、電子レンジで加熱して食べると言う生活を1〜2ヶ月行ったり、長野五輪の記念皿5色集めようと某大手ハンバーガーチェーンのプレゼント企画にまんまと乗っかって朝昼晩を1週間続けたり、友達とラーメン研究会と称して環七沿いのラーメン屋を週2回食べ歩きしたり、普段では実家からの米でご飯は炊くけどおかずは、安売りの納豆の買いだめと安売りのブロイラーの卵ワンパック100円か100円以下をつかった納豆オムレツに、安売りBIGサイズの業務用ケチャップで味付けと言う、正に先を考えていない恐ろしい食生活だった。
今思い出すだけでも、ゾッとする内容が多い食。
そんな私の体は、案の定蝕まれ、体をひとかきすればミミズ腫れの様に赤く浮き上がり、火がついた様に全身痒くなる慢性蕁麻疹へ。
実家に帰って食が変わってだいぶ落ち着いたものの、その原因たるや全く理解していなかった。 今の時代はアレルギー持ち多いし俺にも降りかかってきたのだろうくらいに。
実家暮らしになっても、コンビニでの買い食いが無くなることはなく、定期的に摂取していた。 結婚し子供が授かり、子供にはいい食べ物選ばないといかんよなぁと思っていた年、痛風を発症した。 贅沢病だと人から冷やかされるが、贅沢なものを食べていた記憶はない。
輪島の生まれながら、海鮮類は苦手、魚卵、甲殻類、軟体系もまず食べない。ビールは苦手で年間にして中瓶1本分も飲むかどうか。医者からしたらなんで痛風になるのか?と言われるほど。
当時は、父親と常に衝突、意見のぶつけ合いをしていたため、思い通りにならないストレスが痛風の原因だと思い込んでいた。
時が経ち、末っ子を嫁が授かった冬に、家族中でインフルエンザワクチンを摂取しに行った事がきっかけで、嫁の意識転換のスイッチが入った。
妊婦だった嫁に対して医者は 「奥さんは妊婦さんだから、メチロサールフリーで」 と看護婦に指示を出したそれに疑問を抱いたのだ。
メチロサールフリーって何? ネット検索すると出るは出るは。。。 元を辿れば水銀である。
保存料としてごく少量含まれているらしい。
そんなこととは知らずみんなで摂取。嫁以外はもれなく水銀が体に打ち込まれ、結果としてその年インフルエンザを免れたのは、私と次女だけだった。
ここにも疑問が残る。同じ型を予防すべく摂取したはずが2人大丈夫で他5人がインフルエンザを発症。
インフルエンザがいかに意味がないか、逆に重金属を直接微量と言えど体内に入れると言う行為これを嫁が悟り色々と調べる様になった。
ここから我が家の食が変わったのだ。
それまで、コンビニでの買い食いや外食にも疑問を持たないと言うか、仕方がないと言う意識で利用してきた。自社で生産する加工品にもバターは高額で手に入らないから、マーガリンで対応していた事もある。今思えばなんと恥ずかしい事か。
これでは身体は壊れる。
社会格差問題を唱える人がいるが、貧困層ほどこう行ったジャンクフードを利用する事が多いそれによって引き起こされる病気を社会問題、政治的責任とする言い方をする人がいる。
わたしは、少し違う様にも思える。社会問題、政治的責任とするならば教育に問題があると考える。
正しいか否かの選択をし責任ある行動をする国民を育成しようとしていない。むしろ従順に言うことを聞いて被害者ヅラするとお金当たりますよに便乗する国民を増やそうとしている様にも思える。
経済重視社会の弊害だとも考える。人の体にとって必要なもの、必要でないものの考え方ではなく、消費者に楽だと錯覚させるもの、美味しいと錯覚されるものをいかに安く大量に流通させるかで経済活動の大小が決まるかのような社会構造に思えてならない。
今病気を抱える人、それは過去の食事が今の自分を作っている。病気の子供を抱える親は自分の食事によって子供の体ができたと認識すべきであり、食事を変えれば変わる要素はあるはずだと私は考える。
不具合の出た私の体で私は実証していきたい。治す意志と食の選択が自分の体を修復すると。
子供の食
子供の食からかんがえる。
国民の3大義務。
「納税の義務・勤労の義務・教育の義務」
とあるわけですが、これ以外にも様々な義務と位置付けられるものはあるはずだ。
子育てもまたその類かと思う。
子供が健全に成長できるように、親として食事を与える事であったり、社会に出るまでの間に他人と強調しながら生活が送れるように躾する事であったり。
当たり前のことかもしれないが、その社会通念上当たり前とされる一般常識的な事が義務にあたるのかもしれない。
私は、自社生産のお米のPR販売の為、いろいろな場所で試食販売を行ってきた。
ご飯の炊飯には、水場の状況や衛生面から試食厳禁なところもあるが、可能なところではラップに包んで、毬寿司のような感じで白ご飯を試食として配っていた。
お祭り的な場所では、多くの親子が来場する。
お金を持たない子供であっても、積極的に試食を配ってきた。
子供が美味いと評価してくれれば間違いないと考えているからでもある。
ある時のイベント会場での出来事。
たぶん年長さんか小学校1年生くらいの女の子が、試食ちょうだいとやってきた。
「はいどうぞ。」
親は同会場に出店しているのか、子供一人である。
しばらくすると、
「もう一回ちょうだい。」
と女の子が帰ってきた。
「おいしかった?はい、どうぞ。」
と何の変哲もない白ご飯を渡す。
実にこれが7回も続いたのだ。
7回も帰ってくるのだから、うちのお米は美味いんだなと自画自賛していた。
その時、ふと考える。
この子はいったい普段どんな食事をしているのだろう?
当時私はまだ独身。当然子供もいないから子供に対する考え方も今ほどあるわけでもない。
ただ、この時は今までにないほどリピートしてくれた女の子が印象的で、自分の思考がスイッチしたのを覚えている。
そうだ。子供は親が選んだ食しか食べることはできないんだ。
当たり前のことだが、実は非常に深い。
子供のことを考えて食材を選び手作りする親と、自分の遊ぶ時間欲しさに加工済み食品やファストフードを選択する親。
極端な例ではあるが、子供は親を選べない。
子を持つ親であるならば、どうして行かなければいけないか。真剣に考える必要がある。
親が子供の体のことを想い選ぶ食。
現代はどうであろう?
保存料や香料、調味料、甘味料、その他さまざまなモノ、食品添加物が混入された、加工済み食品を日常で与えていないだろうか?
おやつは?スナック菓子やジュース、その原材料の表示欄は見ているだろうか?
子供たちがおいしそうに、大手メーカーのその類のものを持ち歩いていたり、親が何の気なしに食べさせている姿、これはどうだろう?
食品添加物が入らないモノを入手することの方が難しい世の中になった。
身体へのリスクは計り知れない。なぜならば、100年もない間に数多くの添加物が認可され食品添加物の世界一ともいえる消費国である日本。
しかもダントツ世界一だというのだ。
石川県立松任農業高等学校 食品製造科卒の私。
過去の授業の一部が断片的によみがえる。
食品添加物は日本国民の体で実験されていると言う余談。
食べて即時反応が出る猛毒なモノとは違い、食品添加物は食品ごとに使用限度が設けられ、メーカーはそれに従って製造しているが、厚生労働省ではそれら複数混入した際の人体へのリスクは検証されてはいないという。
約400種あるともいわれる日本で認可を受けている食品添加物。これらの組み合わせで生まれる添加物は1000種を軽く上回るという。
また、添加物の多くは石油から精製されたものが多いらしい。
人は当然石油を食べることはできない。
これらが豊富に使用された、加工済み食品が、スーパーやコンビニなどの量販店の棚を埋めている。
大手外食チェーンなどは、加工済みの物を温めて出すだけの仕組みをとり、スピード感をもって、見た目や味を統一した形で提供する仕組みをとっている。固包装される以上賞味期限の延命措置をはかり、食品廃棄ロスを減らしてお金に変えたいはメーカーの心理だろう。
調味料などにも注意を払いたい。
醤油風調味料、みりん風調味料と言った形で、似て非なるモノが数多く存在する。
一括表示を見ないで量と価格、好みの味で買う消費者は、知らず知らずのうちに多くの食品と言いがたいモノを、いとも簡単に食べているのである。
もし、その過程に子供がいたらどうだろう?大人たちと同じものを口にしているとしたら、、、とても怖いことである。
話はそれるが、病気したときに処方される薬、これは年齢や体重などに応じて許容量を算出して処方されていることは、たいていの大人なら知っていると思う。
つまりは、科学的に精製された薬品は、基準を超えて使用すると大きな副作用を伴うという事である。
食品添加物の多くは石油から精製されたものだと書いた。精製されたものはたいていは化学構造式で書き表すことができる。
理科の実験を思い出してもらいたい。
化学物質と化学物質を、ただ混ぜ合わせても反応しないが、そこに水が加わると化学変化を起こす。そんな実験を覚えてはいないだろうか?
人間の体は、その大半が水で構成される。体重の60~70%ほどは水分だと言われている。
つまり人体は水溶液であり、食品添加物は化学物質であり、食事の際単品の原料だけで済むわけもなく、加工済み食品や化学調味料をかけ合わせればどうなるか?
体の中では何が起きているか・・・考えるだけでも恐ろしいことである。
子供は、ここまで考えて食事をすることは不可能である。
だからこそ、大人が子供の食を考える必要がある。
そんなこと言ったら食べるものがない!生きていけない!と激怒する大人がいる。
実際に不純なものを避けて食べるという事をやったことがない人が多い。さらには薬物依存症的に添加物の味にならされ、味覚がそれ以外を受付けない状況にされていることも多い。
人間、今までと違う事をしようとするのは、とても大変で体力のいる事である。
しかし、変えてみると以外にも体は素直に反応するものなのである。
化学的に精製されたモノが多い世の中、そんな中でうちの何の変哲もない白飯をおいしいと食べてくれる子供たち。
この子供たちを見て、良いものを作りたいと思い今に至る。
小さな体で大人と同じものを食べ、排毒機能も未発達な子供たちが、多くむしばまれている。
子を持つ親なら子供の幸せを願わないのは私にしたら異常だと思う。
子供の未来を考えるなら、子供に異物を与えてはいけない。
全てを避けられない世の中であるのは、皆知っている事実であろう。
であるならば、できる限り悪いものを避けて良いものを選択する道を歩んではどうだろう?
川原農産で、子供に対する意識が強く芽生え活動に転換したのは、こういった時代背景の中に輪島のお米を美味しいとリピートしてくれる子供たちに巡り合えたからだ。
弊社では無農薬・無化学肥料と言う事はうたえない。一部であっても、少量であっても使用はしているからだ。
これらが子供たちの食べるご飯に与える影響、もっともっと真剣に考えねばならないと思う。
私は子供たちへの想いを忘れることなく、日々の命を育む仕事にあたりたいと思う。
未来の子供たちが笑顔で過ごせるように。
未来へ繋ぐ食と農、そして命
まえがき
私は、1681年天和元年より代々続く農家の九代目。
中学生までは地元で過ごし、高校大学と7年間親元を離れて生活し、家業に就いた。
その間に、食品製造のことや微生物のことなどを学び、親の目がないのをいいことに不摂生極まりない生活を学生時代に送ってきた。
身体に出てきた異常。その原因や自分自身の健康に対し無頓着な日々を送っていた。
農業に携わり、命を育む事を通じて意識は徐々に変化する。
試食用に炊いたご飯を、何度も繰り返しもう一回ちょうだいと手を出す子供たちがすごく印象的で、子供たちのことを考え始めた。
子供が必要とする食って?子供が成長に必要なもの不必要なものって?
考えれば考えるほど、不要なものが多い世の中。見せかけだけの華やかさや美味しさ、なんだかすごくいいものに思えるPRやCMに惹かれて本質を見落とす現代社会。
自分自身どうすればいいのだろう?正しいことをしようと思えば少数の類。大きい類に交わろうとすれば自分に生まれる矛盾に対する違和感。
良いものとはなんだろう?お客様にとって本当にいい事ってなんだろう?
鬱陶しいかもしれないけど、自分が正しいと思う事を口にする必要がある。
口にすることで離れていく人もいるだろう。人が人であるゆえにすべての人から好まれ愛され敬われる事はない。
だとすれば、自分を信じてくれる人に自分が見たもの、得たもの、体験したものを伝えよう。
一人でも良い。二人なら尚良い。それ以上ならもっともっといい。
自分が伝えることで、考えて行動が変わる人が増えてくれれば。
きっとその周りにいる子供たちの環境も変わってくる。
私は4人の子供に恵まれた。子供たちからいろいろ教えられ学んでいる最中だ。
だから、考え方や意識思考は時折それに合わせて変化する。
ただし変わらず不変のものがある。
子供たちが幸せであると願うこと。子供たちと共に過ごす人たちが幸せであると願うこと。子供たちのさらに先の子供たちが幸せに暮らせるようにと願う事。
子々孫々、幸せに暮らしていけるように、今私がすべきこと。
一部の人にとっては商売の邪魔だとにらまれるかもしれない。一部の人にとっては面倒くさいことかもしれない。一部の人にとっては大手を振って賛成できない立場なのかもしれない。一部の人にとっては間違いだと言われるかもしれない。
そうであっても口を開いて伝えようとする事。これが私の願う未来にとって必要なことだと思う。
行動に起こす、そのためにここに記していきたいと思う。
1681年・天和元年創業 百姓一系・九代目与三郎
笑顔生産法人 有限会社 川原農産 代表取締役 川原伸章