導かれるままに
命の尊さの転換期を感じる。
長い年月をかけ、人類は欲しいものを得るために、元々備わったいた機能を捨てる選択をした。
人類が社会を形成していく中で、和の精神を築き上げ、長きに渡り人としての美徳や生き方を求め生み出してきた日本。
戦争というしたくないモノへ手を出さざるを得ない状況に追い込まれ、大東亜戦争と言う負け戦に臨んだとされる説もある。
当事者では無いから仮説でしか無いが、戦争に負けた代償と命の重さを当時の日本の指導者達は天秤にかけ人命を尊重したのではなかろうか?
現在、今年90歳を迎える祖父が言う。 若い頃米3俵担いで山を越えたと。
実に180キロの重荷を背負い、舗装もされていない山道を登り下りしたと言うのだ。
ウェイトリフティングの選手であろうと、現代の筋肉隆々の人達であろうと、中々できる話では無いだろう。
戦後70年と言うあまりにも短い時間の中で、日本人の体型や体質は激変した。
食べ物、教育、様々な分野で歯向かうことのできない、従順なペットの如く退化の道を進んできているのではなかろうか?
この姿を当時の指導者達が望んでいたとは考え難い。
恐らくは、条件を飲まねば自国民を命を護れないと思ってのではなかろうか?
自国民の命を最優先に考え、生き抜いて欲しい。
生き抜いていく中で願わくば間違いに気がついて欲しい。
間違いに気がついたなら日本人と言う仲間の為に正して、古き良き時代の日本を取り戻して欲しい。
そう願ったのではなかろうか?
戦後の食糧難の農業、化成肥料と農薬を用い量産体制を築き上げいち早く国民の胃袋を満たさねばならない使命があった。
これが有るから今の命がある。
命は繋がれた今、様々な問題や弊害が生まれ、体に現れている。
これを正せるのは、食でしかない。
人の体は食べたものでできている。
生命エネルギーのあるものでなければ、活力ある身体は得られない。
先人達は、米と味噌汁、漬物で強靭な肉体を作り上げてきた。
動物性タンパク質や性の強いものは、病気になった時や特別なお祝い事を持って食べられていた。
今の人達からしたら、貧乏くさい食事に思うだろうが、人としての必要な食の基本がそれなのだ。
必要以上のカロリーを持って、体を破壊し続け様々な病気が噴出しているのが現在だ。
だから現代病という。
農業の生産について私は全くと言っていいほど勉強してこなかった。
農業高校では食品製造にかかわる事を、大学では海洋微生物の事を、専攻してきた。
これも不思議な導きだ。
農業の生産の基礎を学び、農業というものはこういうものであると言う近代的農法を叩き込んでいたとしたら、今の私は無い。
むしろ、生産の基礎がなかったからこそ、食品加工を学んだからこそ、微生物を学んだからこそ、今の私がある。
近代的な農業に疑問を持ち、本当にこれでよいのか?このままでよいのか?もっと良くはできないのか?常に問いかける自分がいる。
先人のおかげで、今の私がいる。
私が行わねばならないのは、先人がしたように後世の子々孫々の為に、生き抜ける社会を残す努力だ。
成人病、アレルギー、奇病難病、様々な弊害が体に現れる現在、これを改善できるのは食だ。
医療でもなく、薬でもなく、食べ物でしか体は回復の道へと向かわない。
我々農業者が意識を変えねばならない。
我々が育て上げた命が、生命力あふれ次の命を生み出す素になっているのかどうか。
命の循環をする。大切な命を生み出す。命をつないでいく。
我々農を営む土の人次第で、後世の子々孫々の未来が決まる。
責任重大だ。
過去を振り返り見れば、自分がその道へ行くように導かれている気がする。
必然の中に生まれ、必然の波に沿って動き生きることが必然であり自然なのかもしれない。
必然の波に逆らえばその分無駄なエネルギーを必要とするし、様々な弊害が降り注ぐのだろう。
何千年、何万年、何億年と自転公転を星は繰り返しながら現代にいたる。その間寸分の狂いもなく回り続ける。
1度でもずれようものなら、衝突し破壊され存在は無になっていることだって考えられる。
宇宙の不変の必然たる動きの中、我々人類も生かされている。
宇宙の動きの中で、カネは重要ではない。
カネが経済を生み、経済が人間社会を豊かにするから、経済が活性しなければいけないという、今の政治にはすんなりそうだとは言い難い。
命あっての経済。命を蝕んでまで活性させる必要はない。
まずは命だ。
一農業者として、大きな転換期を迎えた。
導かれるままに、生命エネルギーあふれる命を育むために、これから生きる。
百姓一系・九代目与三郎
笑顔生産法人 有限会社 川原農産
代表取締役 川原伸章